今日は、学歴をテーマにブログを書いていきたいと思います。
きっかけは、あるSNSで学歴について企業の研究者の方とやり取りをする機会があったことです。そのやり取りを通して、自分の考えを改めて整理してみたいと思いました。
このブログでは、受験業界のことだけを取り上げるのではなく、大学受験や学歴というテーマを入口にしながら、学力とは何か、教育とは何かという、もう少し大きな視点から考えてみたいと思います。
その上で、現在の受験業界には、子どもたちを非常に狭い価値観の中へ追い立ててしまっている面があるのではないかと感じています。
今回は、その問題について私なりの考えを整理しながら、受験業界の学歴観とその限界についてお話ししていきたいと思います。
なぜ学歴について語るのか?
今回のきっかけになったSNSでのやり取りについて、少し説明したいと思います。
SNSでは、企業の研究者の方がおられたので、このブログでは仮にAさんと呼ぶことにします。
実際には、最初に質問を投げかけた方が別にいて、その方に対して私が回答を書きました。それに対してAさんがコメントを付けてくださり、そこから議論が始まったという流れです。
その発端になったのが、「大学院は学歴ロンダリングだよね」という趣旨のコメントでした。
「学歴ロンダリング」という言葉をあまり知らない方もいるかもしれません。
例えば、学部は別の大学を卒業したけれど、大学院から東京大学へ進学し、「東大卒」と名乗ることで東京大学というブランドや肩書きを得ようとすることを、揶揄する意味で「学歴ロンダリング」と呼ぶことがあります。
もちろん正式な用語ではありません。受験業界やインターネット上で使われる、一種の俗称やミームのような言葉です。
この言葉には、「そういう経歴の見せ方はずるい」「肩書きを利用している」といった、やや否定的なニュアンスが含まれて使われることが多い言葉でもあります。
学歴ロンダリングってなんだ?
その投稿に対して、Aさんと私の二人でコメントをすることになりました。
実はAさんも私も大学院を修了しています。しかも理系の出身で、Aさんは現在も研究者として仕事をされている方です。
その立場からすると、「学歴ロンダリングって何の話だ」という感覚になるわけです。
大学院というのは、研究したいテーマや専門分野があって進学する場所です。研究者の中には複数の学位を持っている人も珍しくありません。そういう世界にいる人間からすると、「大学院で別の大学へ進学したからロンダリングだ」と言われても、正直ピンと来ないんです。
研究者にとって重要なのは、どこの大学に入ったかではなく、何を研究し、どんな成果を出したのかです。
だからAさんも、おそらく言いたかったのは、「学歴ロンダリングなんて、そもそも何なんだ。そんな発想自体がおかしいだろう」ということだったのだと思います。
私もそれにはかなり共感しました。
結局、「学歴ロンダリング」という言葉が問題になるのは、ごく一部の受験界隈やインターネット上の価値観の中だけの話であって、研究の世界ではほとんど意味を持たない言葉なのです。
受験業界が発信してる「学歴社会」という価値観
ただ、私自身は受験業界にも長く身を置いてきたので、そういう言葉が出てくる背景も理解できます。
なぜそういう発想になるのかというと、逆に考えれば分かりやすいんです。
塾や予備校では、「より偏差値の高い大学へ入ることが価値である」という考え方が、非常に強く語られます。極端に言えば、「難関大学に入らなければ意味がない」「大学のランクがすべてだ」という価値観を、子どもたちに繰り返し伝え続けている面があります。
そうした価値観の中で育った人たちは、「大学名こそが価値である」という考え方を身につけてしまいます。
その結果、「大学院から東京大学へ入るなんてずるい」「学部から入った人と同じ東大卒を名乗るのはおかしい」といった発想が生まれてくるのだと思います(東大というのはあくまで例です)。
つまり、「学歴ロンダリング」という言葉そのものが問題なのではなく、その言葉を生み出してしまうような学歴観が、受験業界の中で作られてきたことこそが問題なのではないかと、私は考えています。
実際、大学院の入試は大学受験とは少し性質が違います。
受験科目も受験者数も比較的少なく、単純な受験勉強の量だけを比べれば、大学受験より少なく済むケースもあります。
ですから、「大学院から東大に入るのは、お手軽に東大卒という肩書きを手に入れているように見える」という感覚自体は、分からないわけではありません。
しかし、それは大学院というものを知らない人の見方でもあります。
大学院は、入ること自体にはほとんど価値がありません。
本当に評価されるのは、その大学院で何を研究したのか、どんな論文を書いたのか、どのような研究成果を残したのかです。
大学院は、学部までの受験とは違い、そこから先の成果が問われる世界です。
そして大学院を修了したとしても、その後に研究職へ進める人は決して多くありません。東京大学の大学院を出たからといって、安定した研究職に就けるわけではなく、任期付きの研究員など、不安定な立場で研究を続けている人もたくさんいます。
そう考えると、「学歴ロンダリング」という言葉で何を批判したいのか、私にはよく分かりません。
結局、そのような批判をする人は、大学という場所を「そこで何を学び、何を成し遂げたか」で評価しているのではありません。
「偏差値の高い大学に入った人が偉い」という受験時代の価値観を、そのまま大学院以降にも持ち込んでいるのです。
だからこそ、「大学院から東大へ進学するのはずるい」という発想になるのであって、その考え方自体が、受験中心の学歴観から抜け出せていないことの表れなのではないかと、私は思います。
大学院は研究したいことがある人が行くところ
ここでは分かりやすく東京大学の大学院を例に挙げましたが、これはどの大学院でも基本的には同じことです。
大学院というのは、「この大学だから行く」というよりも、この先生のもとで研究したいという理由で進学する場所です。
それぞれの研究分野には第一人者の先生がいて、その先生のもとでなければできない研究があります。だから大学院へ進学するということは、その先生に弟子入りするような意味合いが非常に強いのです。
例えば、自分が研究したいテーマの第一人者が東京大学にいるのであれば、東京大学へ行くしかありません。
そこに「学歴を良く見せたい」とか、「肩書きを手に入れたい」といった発想が入り込む余地は、実際にはほとんどありません。
だから、研究の世界を知っている人からすると、「学歴ロンダリング」という言葉自体があまりにも的外れに感じられるのです。
私には、この言葉を使っている人たちは、大学院という場所を知らずに、学部受験の価値観だけで大学院まで見てしまっているように思えます。
学歴ロンダリングという言葉の裏にあるもの
「学歴ロンダリング」という言葉そのものが、実態を知らないところから生まれた、あまり意味のない言葉だということは、ここまでで十分お話しできたと思います。
私が本当に問題だと思っているのは、その言葉の背景にある価値観の方です。
つまり、「学歴がすべて」「大学は入学時の偏差値ランキングで価値が決まる」という考え方です。
東京大学が一番、京都大学が二番、といったような偏差値ランキングの中で、「いかに高い大学へ入るか」ということだけを人生の価値基準にしてしまう。
そして、その価値観を大学卒業後も、大学院へ進学しても、社会人になっても、ずっと引きずり続けてしまう。
大学入試で頑張って結果を得たやつだけが偉い。そんな価値観です。
私は、それがとてももったいないことだと思うのです。
大学というのは、入ることがゴールではありません。
その大学で何を学び、何を身につけ、卒業したあとに何を成し遂げるのか。その方が、はるかに重要なはずです。
にもかかわらず、いつまでも「どこの大学に入ったか」というランキングだけに価値を置き続けてしまうのは、とても視野の狭い学歴観なのではないか、と私は思っています。
学歴社会を吹聴したほうが儲かるのが受験業界
私自身も受験業界にいたので、そのことはよく分かります。
実は、この学歴という価値観を作っている半分くらいは、塾業界や予備校業界なんです。
「もっとランキングの高い大学へ行こう」「もっと偏差値の高い大学へ行こう」と言って子どもたちを追い立てる。それが塾や予備校のセールストークです。
たとえば生徒に対して「頑張ろうよ」という言葉の中には、「(うちの塾に入って)頑張ろうよ」とか、「(うちの夏期講習に20万円払って)頑張ろうよ」という意味が入っています。
もちろん、かっこの中までは言いませんよ?
それで実際に講習会へ来ると、鉢巻きを締めて、狭い教室へ押し込んで、シュプレヒコールを上げて、「絶対合格」とかやるわけです。
その中では、「落ちたらクズだ」とか、「学歴を手に入れれば人生はバラ色だ」といったことを言うケースもあります。
私は、これは洗脳だと思っています。
そして、その洗脳された子どもたちが大学へ進学し、そのまま受験講師になったり、親になって自分の子どもにも同じことをやる。
そういう、私としては負の連鎖としか言えないようなことが起きています。
その結果、この学歴観が日本の中で非常に強固なものになっているところがあるのではないかと思っています。
広い視点で見たときの教育とは
私の出発点は教育学部です。教育というものを、全体として見てきました。
教育というのは、受験勉強だけではありません。
初等教育である小学校、中等教育である中学校・高校、そして大学まで含めて、それぞれの段階にどんな役割があるのかを全体として考える。それが教育学部で学んできた教育の見方でした。

学術的にも、行政でも同じ区分を使っていますが、小学校を初等教育、中学校と高校を合わせて中等教育、そして大学以上を高等教育というふうに分けています。
つまり、六年、六年、六年で、十八年間の教育を、初等教育・中等教育・高等教育に分けているということです。
そういう視点から見ると、受験勉強というのは、中等教育で学ぶ内容をひたすら繰り返し、掘り下げていくものです。
言ってしまえば、中等教育の内容をゴリゴリと繰り返し続ける世界なんです。
教育全体という大きな流れの中で見ると、その非常に狭い範囲のことに、どうしてここまで大きなエネルギーを注いでいるんだろうと思ってしまいます。
でも、それは止められません。
なぜなら、その価値観自体が自家中毒を起こしているからです。
受験業界の中にいると、その価値観だけがどんどん強化されていってしまい、教育全体を見る視点が失われてしまう。
私には、そのように見えています。
大学受験はしょせん「中等教育」
ここでちょっと確認しておかなきゃいけないのは、受験勉強でやっている高校の勉強というのは、中等教育の勉強だということです。
高等教育じゃないんですよ。高等学校といいながら(笑)。
受験業界がいくら威張ったところで、お前らがやっていることは中等教育だぞ、という話なんです。
そういう教育全体の姿から見たときに、受験業界が子どもたちに「学歴がすべて」という価値観を押し付けていることに対して、私は警鐘を鳴らしたいという気持ちが強くなってきました。
特に、受験業界を離れてプログラミング教室で子どもたちと関わるようになり、高専生や、高専を卒業した子どもたちが講師として一緒に活動するようになってから、受験勉強によって失われるものが、とても多いと感じるようになりました。
もちろん、やりたいことがあって、それが大学でしかできないことであれば、そのために塾や予備校を利用するのはいいと思います。
でも、人生のすべてが受験であるかのように、そこにはまり込んでしまうのは危険です。
はっきり言って危険です。
高等教育の価値とは
大学というのは、中等教育とは違って、答えのないものに対して答えを見つけていく学びの場です。
だから、大学や大学院でやることは、大学受験のように決まった答えを出すことではありません。
「君はどこに課題意識を持っているのか。」
「君は何を感じて、この研究をやるのか。」
そういう動機の部分も含めて、高等教育ではトレーニングを受けるわけです。
だからこそ、高等教育には価値があるんです。
さっきの「学歴ロンダリング」という考え方や言葉が出てしまう人というのは、大学に入ることがすべてになってしまっていて、大学の中で何を学ぶのかということに、意識が向いていない人なんだと思います。
だからこそ、そういう言葉が出てくるわけです。
その時点で、教育の価値をかなり目減りさせてしまっていると思いますし、そこまで頑張って入った大学で得られる価値も、自分で三分の一とか、あるいは十分の一くらいにしてしまっているんじゃないかな、そんな気がします。
高学歴=バラ色の人生は本当か?
私自身、転職活動を経験して強く感じたことがあります。
今の日本で、大学のランキングがそのまま通用するような社会というのは、本当に一部の企業だけなんです。
例えば海外で就職しようとすると、「どこの大学を出ましたか」ということは、ほとんど問われません。
国によっては、就職活動の際に大学名を聞くこと自体が違法になっているところもあります。
だから、海外の就職活動では、基本的に大学名は聞かれません。
その代わりに聞かれるのは、「あなたにはどういう実績がありますか」「それを何で証明できますか」ということです。
例えば、コンピューターサイエンスで学位を取りましたとか、こういう教育を受けて、このコースの修了証を持っていますとか、そういう形で自分の能力を示して就職が決まるのが海外なんです。
そして、それに倣う日本企業も実は増えてきています。
だから、「高い学歴さえ手に入れれば人生はバラ色だ」という世界は、もう今の子どもたちの未来には待っていないと私は思っています。
それにもかかわらず、それが永遠に続くかのように塾業界や予備校業界が言っているとしたら、「お前ら、何も知らないんじゃないの」と私は思います。
文句がある塾業界の方、予備校講師の方がいたら、ぜひ私のところにコメントをください。
ということで、このブログを締めたいと思います。


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